「日記」を書いても同じ
「カメラ」があります。
彼らは「写真を撮る」ために存在しています。
先にカメラが出来て、後から写真を撮ることを思いついた訳ではありません。
カメラ自身、自分の存在に疑問はない。
カシャっと撮れればそれで良い。
彼らが、彼らの中で価値がなくなったと思う時、
それは「撮れなくなった」時でしょうか。
カメラは「写真を撮る」という天命がある。
逆に、人間は(価値より)先に誕生しました。
何のために生まれたかは後付けです。
カメラと違い、生まれる前に「天命を授かって」
生まれてきた訳ではありません。
これを「しなければならない」というものも、本来はありません。
親の期待は「親の問題」であり、本人の問題ではありません。
全て、生まれてきてからの後付け。
だから悩むのです。
そして自分の価値を探すために、不安を取り除くために、
行動していく。
行動すると他者がいます。
他者がいると不安になったりもします。
不安を認めたくないときは、自分の心を守るために怒りに変えます。
時には、自分が得られるべき権利が侵害されても怒りが起こります。
そう、期待値に届かない時、人は怒ります。
恐怖感や罪悪感、義務感の中で後付けの理由を探しては不安になります。
カメラは、カメラとしてつくられました。
人は、カメラを作りました。
人は、人として自分で人をつくらないといけません。
親が作るわけではありません。
何かを作る時、何かを生み出すとき、
人は自分の価値に気付きます。
別にデカいものを作る必要はありません。
人の為だけにつくる必要もありません...
カメラできれいな写真を撮ったり、
自分のために、日記を書くことでも良いんです。


