今日は何が起こるんだろう…雨が降っているけど
「今日は何か起こる!」と、日々の毎日が楽しみという人がいる。いやはや凄いなと。。。
毎日、「月火水木金土日、月火木金・・」の繰り返しでしかない私には、本当に凄いなと。。。
誕生日の朝って、「今日は、なにか起こるんじないか!」と期待と楽しみが自然と沸き起こります。こんな感じを毎日実感しているんだろうと思うとさらに凄いナと。
今朝の宝塚は雨。。。しかーし、「雨の景色もまた良い」と誕生日は思う。フツーの日は「勘弁してくれよ」と思う朝でも。
あの人、「親の育て方が良かったのか」と思うが、育て方が悪かった点も垣間見える。環境は確かにあるが、「まぁー本人次第」だろうけど。
そう言ってしまうと、「親」ってなんだろうか。私の父親は今、生きてのか死んでいるのも分からないし、大して気にしてもいない。仮に母親が亡くなっても今の生活が何か変わる訳でもない。
ただただ、私は今までと同じように過ごすのだろうと思う。フツー大人になれば、子供とはそんなものであろうけど。
子供の頃は大きく見えた親も、今みれば「等身大」。
丹下健三が、建物には人間のスケールと社会のスケールがあったと言うのを思い出す。
大きさと言えば、京都の町屋と奈良の東大寺は大きさが全く違う。両方とも木造。だけど、求めるものが大きさを変える。そして作った人のスケールも違う。家しか作らない人はその枠から出ることが出来ない。ある巨匠も丹下に言わせるとその程度だ。
脱線したが、子育てが終われば、親も単なる人。等身大に見える「見方」も当然か。ただ、建物は絶対的な大きさが異なる。一番中途半端なのはビルの室内であろあか。
家の天井高さ2.1mとするとそれは人のスケールか。社会的な空間が3m以上とした時に、2.6〜3.0mの高さは一体、何なんだ。
家より大きく、社会空間より小さい。こんなクダラナイ空間で過ごす時間が長いなんて。
橋本の大阪市長は、以前、学校の天井高さ3.0mの規制に文句を言っていた。が、寺子屋の高さが必ずしも良い訳ではないことくらいは分かるであろう。場合、場合であるが、なんとか社会空間を考えようとした名残であろうか。
今だに縛られているのが「けしからん」のであれば、もう少し品の良い「言い方」の方が説得力があるであろう。
大阪人の私が言えば非難にはならないから、ハッキリ言うと大阪人は、ハシタナイ点を改めるべきであろう。
では、他の近畿は上品かといえば神戸と大阪は六甲山からみれば「ひとつながり」なので、同じくはしたない文化を共存している。違いがあるとすると、京都や奈良など大阪とは区別できる土地は文化も別であろう。
例えば、京の町屋は格子がある場所の(足元の床である)石畳はパターンが変えてあり、目の前で立ち止まって家の中を見るような行為を町として、やんわり防いでいる。
大阪ではエゲツナイ花を置くか、目隠しをするか、覗かれるか、その程度の対応であろうか。そー、どれも直接的なんですよね。大阪。神戸は。
原理主義思考なんですね。ほんわかなんてウソ。おもろければ何してもいい、わかりやすければ一番って文化もある。
解決方法は、大阪、神戸から外に一度でて田舎に住むことであろうか。
田舎の木造は、手間がかかる。鉄筋コンクリートや鉄骨造で現代風に作れば維持メンテの手間がそれほど掛からない。都会は忙しいから、そーいう建物が好まれる。金食い虫の建物も嫌われる。
対して田舎風の木造建築は女性の化粧のように手間が掛かる。正確には手入れが要る。結果、愛着も湧く。建物は建ってからが本番と思うと手入れは大事な視点でもある。「今日は何が起こるんだろう・・・」と楽しめるようになれば木造を設計しても良い環境と言えるのかもしれない。
