里山に残る古民家
五行説
里山に残る日本民家は田の字型のプランです。田の字住居は、竪穴式住居の完成形ともいわれています。
里山って、皆さんそれぞれのイメージがあると思います。自然の中での営みを感じられる風景と言えば良いのでしょうか。マンションとは違いますよね。
古来、東洋の五行説では、木・火・土・金(石)・水の五つの元素から万物は組成されるといわれています。
日本民家の様式とは?
1.建築様式について
建築様式とは建物のカタチのことで、建築の基本要素である構造、平面、造形について一つの独特の形式が認められる時、スタイル(様式)が成立していると判断されます。
欧州では「ギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココ」というように建築の歴史はスタイルの歩みとして語られ、住宅も教会も役所も王宮も城も造形すら形を変えて変遷していきます。
対して、日本では飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸様式というように時代毎に様式を区切って語ることはなく、唯一神明造、春日造、茶室、書院造や数寄屋造・・・等々。
唯一神明造(千数百年)、茶室(千利休が今の型を決めてから守り続けて四百年)と日本では一度成立してしまうとその建築様式は、現在も生き続け、かつ、併行して古いものも生き続けます。数寄屋が生まれても、書院は残ります。
理由は、様式(スタイル)が、欧州のように時代に従属せず、日本の建築様式は『用途』に従う特徴からきています。
日本の古墳時代は、ローマ帝国末期に当たります。伊勢神宮は今でも平然と当時のスタイルで作り続けていますが、現在のキリスト教において、古代ローマ様式で作り続けているなんてヨーロッパ人は想像もできないし、新築でローマ様式を選択することはありません。しかし、日本では求められる用途の器を作るために建物を作りますので、唯一神明造(伊勢神宮)を去年もつくって(遷宮)いるし、日本人に変える想像は出来ないといえます。
時代と共に、用途が増える度に、古いものも残りならが、新しい様式が増え続けるのが日本の建築様式となります。
2.日本民家とは?
日本の建築は、用途に従いつくられてきました。住居では、竪穴式と高床式の2つのルーツから建物が作られ、これらは身分の上下、果たすべき役割により、古墳時代から分化したとされています。
弥生時代から本格的に始まった高床式は、平安時代には寝殿造りへと一つの形にたどり着き、以降、皇室建築などで採用されていきます。対して、竪穴式住居は民の建築として、縄文時代から始まり18世紀には、神戸地区にある田の字型の民家へとたどり着きました。
2-1.竪穴系民家の特徴
(1)土間
竪穴系の形式は、土間で暮らす伝統がベースです。土間に炉を切り、土間の上にムシロを敷き、寝起きします。高床式の影響を受け、床を張り始めますが、全面に張ることはなく、大きな土間を残し、カマドが置かれ、作業や収納や家畜の用に当てられてきました。
(2)炉
土間を掘る形で始まった炉は、やがて地上に突き出し、カマドになります。竪穴系の土間のカマドと高床系の板の間の囲炉裏は、日本の民家の二つの火の場所となります。
(3)掘立柱
柱は、礎石の上に立てず、掘立柱としてきました。杉や檜は腐りやすいので、竪穴系では栗が多く使われてきました。
縦穴系は栗、高床系は杉と檜という柱材の使い分けは長く続き、江戸時代には、全国的に植林は杉と檜が主流の中、関東・東北地方では栗の植林が続けられていました。ただし、掘立柱は時代を経るに従い減り、礎石が使われるようになり檜や杉が増えていきました。
ちなみに総檜造りの神社は、日本独自の採用形式であり、中国や朝鮮では松が使われていました。檜は年数が経っても劣化のひびが入るだけで今でも古い神社が多く現存しております。対して、松は油分が多いので腐りにくい性能はありますが、劣化により材が大きく裂ける性質から残っている建築は少ないといわれています。
(4)さす構造
建物の骨格は、柱・壁の上に屋根がのり完成します。この屋根構造を小屋組といいます。縦穴式住居は、小屋組が丸太を三角形に組んだ「さす(差叉)構造」で、左右の壁から登梁(のぼりばり)が棟に向かって1点集中する姿から、合掌構造とも呼ばれます。
茅葺き民家は今でもこの構造が多く残ります。さす構造の接合部は、縄で縛り結合します。その上にススキ(山)かヨシ(水辺)の茅が葺かれました。構造上、柱・梁間の長い大きな屋根がかけられないので、大きな建物は必然的に長い建物か分棟になっていきました。
対して、高床系は、梁と束の構造で、和小屋組と呼ばれます。部材は角材を精緻に加工して継ぎ手と仕口で結合し構成され、寺院建築のように大きな屋根空間をつくることも可能です。屋根材には、最初は板材から檜皮(ひわだ)葺きへ、次に瓦となっていきました。檜皮は、大木(樹齢70年以上)の檜の表面の材をそいで収拾します。次に剥ぐまで期間が長く材の収拾も困難で、剥いで葺く技術的な難易度も高いことから用途を限る屋根材となっています。
(5)土壁
縄文時代の当初には、壁はなく屋根だけでした。弥生時代なって、防寒のために木の枝を編んだ木舞(こまい)を芯に両面から土を厚く塗る木舞壁になりました。高床系は当時、竹や樹枝を編んでつくったスケスケの網代状でした。
ヨーロッパでは、過去、組積造をベースとする箱型建築として壁という「箱」が重要視されてきましたが、日本では縄文時代より、建築は「屋根」という形式でつくられ、屋根の下に発生した用途が建築の種別を決めるという認識が、建築基準法に今も残っています。
2-2.日本民家の平面の変遷
縦穴系平面は、当初は火を中心とした円形、次に四角、さらに縦長へと生活の充実と共に平面を進化させ、縦長の入口側には食と寝と団らんを、縦長の奥の炉のまわりには調理と作業と機能を二分させてきました。その段階までいって、縦穴はやめて平らな土間となり、次の段階で床が持ち込まれました。
床は弥生時代の稲作と同時に持ち込まれ、米倉などで使用されていましたが、仏教が人々の心を支える信仰として広まった奈良時代に、仏様やその型代(かたしろ)を土間に直接置くことが出来ないし、まれにくる遊行の僧にも、一段高いところでお経を唱えて欲しいという意識が芽生えることによって竪穴系にも板が張られ、やがてそこに生活の一部が移ったといわれています。
長方形平面の半分の面積を占めて床は張られ、床の上の北側には穴蔵のような閉鎖的な寝間が配され、南側の日当たりのよい場所には開放的な座敷が置かれ、座敷は仏様と来客用で、土間は調理、食事、団らん、作業に当てられました。
次の段階で、寝所と座敷の土間側に床が拡大し、床の上に土間の炉とは別に囲炉裏が設けられ、調理の一部と食事と団らんの機能が上がってきました。土間は調理の一部と作業のみ。このような平面は古い民家に見られ、広間型と呼ばれます。
さらに床の機能は分化・拡大し、広間の北と南が分離され、北は台所に、南は囲炉裏を囲んで食事と団らんにあてられました。市民交流民家の形です。横長の平面を土間と床で縦に二分し、床の上には四つの部屋が並ぶところから“四つ間取り(田の字型)”と呼ばれ、これをもって縦穴系民家の平面形式は完成したとされます。
2-3.平面の変遷のおまけ
今の家は、LDK+寝室が住宅様式の主流です。これは、戦後に住宅の大量供給を目的とした(ソ連式の)団地がつくられたことから一般に広まったとされています。この団地の中で考えられたDKが発展してLDKになりました。
昔の農家の家は、逆に台所が北側で暗く狭い。流し台も鉄ではなく、石・人研ぎで使いにくく、においも取れず、低い炉に、動線も考慮されていなかった。家の主人が男だったからといえます。
また、狭い家の工夫として、日本家屋の昔のインテリアは、前もってプランを設定していません。はじめからフレキシビリティを許している。部屋の用途も今と違って適当に変更していた。あるときは寝室、ある時は葬式と同じ部屋で多用途を行っていた。何せ狭い、だからこそ選択の幅は広い、という矛盾が家には埋め込まれていました。
建築界の巨匠ミース・ファン・デル・ローエ(ドイツ)のユニバーサル・スペース(どんな生活が入ってきても、自由に空間を組み立てられるような工夫)は、日本建築の柔軟性と多様性から着想を得ているといわれています。
昔の日本家屋は、何段階か庇が出ていて、縁側があって、障子があって、襖があって・・・と、奥へ奥へと自然をグラデーションナルに取り込んでいくかがうまく考えられていました。しかし、現代建築の根本には「切り分ける」(境界が大事)発想があって、そこでは、部屋と部屋を区切ることで、より機能が発揮出来るとされています。
理由が明確であればあるほどよいとされる近代の発想から、「何となく」人が集まる場=文化の創造となる公共空間を現代では作ってきませんでした。
モダニズム建築以降の近年の日本では、スペースの機能が明確化されていればいるほどいい建築だとされてきましたし、西洋的な広場は政事の場(欧州や天安門広場など)という認識から、広場=無味乾燥な空間が増えていきました。元来、日本の持つ広場が祭事としての機能を失っている現状があります。
3.木造から違う材料の街並みへ?
人は近くにあった材料で家を作り始めたと想像するのが自然です。日本は今に至るまで木を利用してきました。
近代、日本の木造建築は、幕末明治初期を機に、大スパンの求められる産業施設や公共建築はトラス構造、その必要のない住宅は伝統で、という二重構造が日本に定着していきました。そして防火・高層の求められる地域からは木造自体が無くなっていきました。
欧州もその昔は木造だったことは1666年のロンドン大火が示しています。パリもベルリンもアルプス以北の主要都市はどこも大火に悩まされた歴史があり、中世、伝統の木造をやめてしまいました。一般の住宅や商店も、教会と同じように煉瓦や石によって不燃化されました。石や煉瓦で建物が作られている限り、大火にはなりません。
火事がある限り資本は蓄積されない。この経済観が日本とは違っていました。欧州資本主義にとって木造の火事は非効率と定義されました。ヨーロッパがアメリカに対してあれほど豊かなのは、数世代を経た蓄積を重んじている点を指摘する声がありますので、サスティナビリティという概念がヨーロッパから現れたのも必然といえます。
ヨーロッパの建築コンペでは、どんなに斬新に見える案でも「時間の継承」という側面がないと勝てないことからもその文化が分かります。
対して日本における高度成長期時代の基本的理論は、開発の理論でした。その前提には自分たちの現在の資産があまりにも貧しいという事実から、二、三十年でまず巨大なフローを起こそうと、そのときの既存ストックを徹底的に壊して新しいものというモノをつくりました。
結果、社会資産としては流通しずらい、次の世代に渡せないものも多く、今は戦後に新たに作った木造建物が更に壊されています。
逆に、日本で初めての高層ビル(霞ヶ関ビル)も解体の計画がありましたが、巨大すぎて壊せない。テナントに移動にかかる経済補填、廃棄物の処理、ビル密集地における調整など、どこも開発の引き手がなく、やむなく改修して使っている状態です。
大きすぎても壊せない(アメリカも同様)。今、日本の街並みが豊かになっていると実感する人は少ないと思われます。
更に日本には特殊事情もあることが指摘されています。木造建築が火事や地震のために二、三十年単位で更新され続けてきた歴史から、「もつ」「残る」というと、コンクリートで固めた箱物を起想させ拒否反応がでます。
あるいは、昔は自分が建てるものが長く残ればよいというエゴイストとしてみられました。サスティナビリティがエゴイズムと混合される。日本はいまだに火事と地震で更新しつづけている都市像を引きずっているともいわれています。
最後に
家とは、そこで生活するための器。従って、そこで生きた人が無意識のうちにつくりあげたものともいわれています。なぜこのようにしたのかというと「なんとなく」で始まり、それが何代にも残ったものは「こうなっていたから」という理由で残っていく形式の集まり。「なぜ」「どうして」などに対する解は「そんなもんでは」ということになります。
何でも理詰めの近代、答えを求める人間の欲求が強い現代ですが、家の建築に明確な理由って必用なのかなと藍那では気付かされます。「コレは何?」「なんでこうなっているの?」とすぐに聞き、それに意味があることを知りたがり、(意味があった場合は)知っては喜びます。
島国で境界が海しかない日本にとって、仮に内輪だけで完結し、西洋の影響も受けなければ日本的なものさえも定義する必要が過去はなかった。
みんな「こんな感じ」、日本的って何?となりますが、諸外国の影響も受け、混沌とした街並みつくりになり、民もネットで瞬時に世界との比較も可能になります。
そして、「日本って何だ?」「日本的なモノって何?」と逆に考え始めます。神戸博物館での「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎」のように外から評価してもらわないと自国の魅力に気付かないように、日本全国が藍那のままであれば、何も気付かないことだろうし、気付く必要もない。藍那の中で日本を語ってもトートロジーにしかならない。
神戸市内のビル群から、30分で茅葺き屋根の姿が現れるところに対比がある。外の世界観から、日本らしさを見ることによって改めて日本的なモノの意味も見えてくる公園。
戦後、建物に求められる用途の変更、木材の枯渇状況による規制などから木材建築は減り続け、今では住宅以外を木造でつくる術を忘れる状態でもあったことにも気付きます。
民の生活の変遷をしる公園建築。さらに、家は生活で有りエンジニアがつくった技術の塊だけでなく、人間の思い行動した器のカタチ。



