建築に未来はナイの?



3つの宿命(大きさ・浪費・長寿)

今では社会の敵?と思うことも多い建築…「建築は嫌われている」(隈研吾)との指摘も気になる点でもある。



「公共事業・土木業界といえば悪の代名詞。建築は嫌われるべきマイナスを有している。まずは大きいこと。大きければ目障り。クライアントや建築家は、多くの場合が目立つことを目的として作るから、一層大きくなる。結果、いよいよ目障りとなり、いよいよ嫌われる。

次に物質の浪費。建築は大きいから途方もない物質の浪費である。地球資源は有限でエネルギーの底が見えはじめている。このような巨大な浪費が嫌われないわけがない。

さらに、建築は取り返しがつかない。一度作るとそう簡単に直したり、取り壊したりはできない。一度気に入らない建築が建ってしまえば、今後、ずっと我慢して暮らしていかなければならない。人間の短命とはかなさを嘲笑しているようにさえ感じられる。だから余計に嫌われる。」(隈研吾 負ける建築)




特権的存在の不在

建築の三つのマイナスは、建築の美点でもあった。建築を作れる「強者」は限られており、建築は希少な存在だった。教会建築のように…

それが持家政策による個の欲望充足の為の政治的な処方や、教会もオウム・サティアンのようなバラック工場教会と、建築は資本主義の欠点を補う一政策手法に成り下がった。
ケインズ主義の「公共事業と持家政策」。経済的な効果が少しはあったかもしれないが、有限の資源を食いつぶす時間軸を無視した政策は今では違和感の方が強いであろう。

大体、役所としては「技術の象徴」「無駄な象徴」で良いはずの国立競技場が頓挫するなんて。時代は変わったものだ。

その役所。『国土強靭化政策』と言っているが、実態は国民の欲望を細切れにして勢力を伸ばす政治家と、夢を語れなくなり職員が付いてこない霞が関の高級官僚、ケインズ主義の時間軸のない大学教授がトライアングルで助け合っている構図でしかない。人口減の日本国土における将来像の積極的な提案型の攻める構想もない。ただ、今の保守人に希望を頂かせる妄想でしかない。

自然との向き合い方?

建築は社会や環境とは、そもそも相容れない要素も含みながらも、これまで持てはやされてきたのは、透明な土地価格にブラックボックス価格の建物を建ててセットで売ると儲かる役目だけなのかもしれない。外国人建築家に建物を建てさすと、更にぼろ儲け出来る構図のようですしね。

建築家も、自分は社会とは距離を置く第三者の立場を突き、批判的な立場に終始。当事者意識もナイですしね。だから、なにも行動はしない(せいぜい、ペンを取る程度か?)。身近な街づくりにも参加しない(人が多い)。だから、自分が社会に何が出来るかを問う建築家は皆無…

建築は社会と相容れないのに、今では「環境、環境…」と言っている。有限の環境を破壊して建てておきながら、さながら『環境に配慮している』~良いことをしている~とは。環境を前面に出す姿勢に疑問を感じる人も多いと思う。

人が生活するうえで、堂々と環境を食いつぶしている点は認めても良いのではないでしょうか? そのうえで、自然と向き合う姿勢を堂々と示しても良いのではないかと。藤森昭信氏の建築を見ていると清々しくも思う。

ポストモダンは終わったのか?

その藤森先生。「安藤忠雄は、ミースの空間をコルビジェの手法で作っている」との記事を読んだ時に思わず唸ってしまいました。

大阪に住んでいたので、安藤建築はよく見ていますが、まさにそうなんだよねと思う建築も多い。明快なプランに鉄ガラスを使いながらもコンクリート躯体。基本思想がしっかりしているので、更に木も使える。巧みですよね。

だから、安藤さんはポストモダンではなく、近代建築(モダニズム建築)のリバイバル(モダニズム建築のルネサンス)って指摘にも妙に納得します。では、今時点ではポストモダンの時代ではナイ?20代の頃は池原義郎先生他、早稲田の先生が好きだったんだけど…

ポストモダンって、今の時代では色気の無駄があるから。近代のライトというテイストも今ではムダなのかナ…

建築が求められている時代ではなくなった気がします…打開策を業界全体で考えて欲しいものです。