学習するから、発達?
「発達と学習」って何が違うんでしょうか?
今の自分自身を見たとき、発達と学習は循環し、支え合ってもいるような(感覚)。
例えば,人という字は、一見、短い方の一画が長い方の一画を支えているように見えますが、短い方も長い方の一画が無ければ倒れてしまう。
学習という短い字と、発達という長い字で支え合っているような。老齢を学習することで更に発達する、発達を認識して,更に学習するなど・・・
内の「学習」と外の「発達」が、循環でもありながら、互いに作用している形のような。
社会的な学習と発達は、「他者の感情を読み取り、行動することができるようになるこ
と」のようにいかに手段を形にするか・・・より良く生きる為の学習には大事な点なのかもしれませんね。
オリンピックプレゼンの 「お・も・て・な・し」 も手話がなければあそこまで、伝わらなかったのかな・・・とも。
「発達は、何かしらの達成を表現して実感が伴うもの、学習は達成を感じて続ける行為、若しくは、本能的に行い自らを変容させていく行為」というイメージ。
だから、「発達と学習の2つは循環し、支え合ってもいるような感覚。」
しかし、発達は、生物学的展開の成熟や、更に文化的教育な意図を持って人格形成をする立場など無限のループ(変容)を前提にしている。
ある目的に(を)達した点だけをもって発達と切り取った考えだけでは足らない。
発達は、”均衡化”から、人が共通に達するある段階や状態ではなく、人との関わりの関わりのなかで、自分なりに生き方を見つけていく、内面的な過程を発達と定義することが出来る。
対して学習は、最初は「人は学ぶ力がある生物であり、どれだけ教わるか」のことかなと最初は思っていましたが、社会適合への均衡化への無限の繰り返しを導く行為を助けるものが学習ではないかとも。
不均衡になった時点から、均衡化を目指す時点で学んだ知恵というのでしょうか。この知恵には、共通性のない発達とは違い、何かしらの共通性が学習にはあるのではないかと。共通性のない発達との違いではないかとも。
ピアジェの認知発達の中で、“同化”と“調節”による均衡化による“認知形成”ってありますよね。そして、4 つの段階で認知・情緒・パーソナリティが形成されると。
ピアジェの理論では、形式的操作段階を経ると高い形式的な思考、抽象的思考による「●○とは・・・」(本質的、理想的な解)を導き出そうとすることが可能。これって、人間の苦悩の始まりのような・・・人間の(本当の)スタート位置に立つ発達過程の区切りのような・・・。
そういう意味では、“後々の生涯発達への展開”においては、この時期以降、抽象化したものを通じて構想・空想による無限の文化への貢献が可能となり、逆に無限の不安・空想への恐怖の始まりでもある。
学習(“経験や練習に基づく行動”)が伴わないと発達(“質的な変化”)がおかしくなるような気もしますね。