読書メモ 『「生きる力」の強い子を育てる』
◆天外伺朗、『「生きる力」の強い子を育てる』、株式会社飛鳥新社、2011年』
~本著書は、人間性教育学を支持し、ゆとり教育を推奨して書かれていました~
P18
「ゆとり教育は、教師の力量がもろに問われる。創意工夫が必要であり、また事前のしっかりした準備なしでは、酷いことになる。学習指導要領に沿って知識の伝達しかしてこなかった大多数の教師には、荷が重かったと推定される。しかしながら、一部の優秀な教師たちは、すばらしい授業を展開したのも事実だ。それらの優秀な教師には、あまりスポットライトが当たらず、ダメ教師のお粗末授業ばかりがクローズアップされた。」
P21「ゆとり教育を評して、半完成品のハンバーグをフライパンで単に焼くことしかトレーニングされていないファーストフード店のコックに、いきなり高級フランス料理を要求するようなものだ、といった教育学者がいたが、いい得て妙だ。
最大の問題点は、ファーストフード店のコックのレベルの教師が大多数という、いまの日本の教育界の現状だ。いまのように、上から管理や枠組みが強く、やたら忙しいだけで単純作業ばかりをきょうせいされていれば、教師がまともに育つことはとても難しい。」
P25「ここまで反省*1するなら、「生きる力」という看板をひっこめてもよさそうなものだが、面子を重んじたのか、看板を塗り替えて存続をはかっている。
新しい「生きる力」は、「確かな学力」「豊かな人間性」「健康・体力」のみ三つが支えていると定義し直し、再び「学力偏重教育」へ舵を切ったのだ。つまり、もともとは行きすぎた学力偏重教育の弊害を是正するために出した「生きる力」という概念を、それとは正反対の意味で使い始めた感がある。
P33-34「日本中一色に見えたゆとり教育反対論も、たまたま波がそちらに振れただけで有り、決して根が深いものではない。第二次世界大戦後の教育行政史と世論の動向を振り返ってみると、波はあっちに振れ、こっちに振れしており、葛藤の歴史が読み取れる。」
P36「『教育の本流は知識の伝達だ』という主張は、日本の教育界の底に脈々と流れている。そして、『行き過ぎた戦後の民主主義教育』という呪文とともに、何度も保守的な知識偏重教育へのゆり戻しを仕掛けてきた。」
P39「教育を自由化してしまえばいいと思う。ゆとり教育を信じる人はそれを実行すれば良いし、学力が大切だと思う人はそういう教育をすれば言い。教師のレベルが高ければ高度な教育を、低ければ『読み・書き・そろばん』を教えれば良い。本人と相談して、最も適すると信じる学校に通えばいいし、合わなければどんどんかわればいい。」
P46「帝国主義が先鋭化し、ヒトラーのドイツとともに世界中を悲惨な戦争に巻き込んでしまった。このことは、両国の教育のベースが、ともにフィヒテであったことと無関係ではない。また、第二次世界大戦後のわずかな年数で、敗戦国の日本とドイツのGDPが戦勝国のイギリスやフランスを抜いたが、これもフィヒテの教育学が功を奏したといえる。」
「『国家主義教育学』というのは、次のような両面性を持っている。A.国家や支配者に忠実で、隣人に親切で、社会のルールやマナーをよく守り、勤勉で国の発展に献身的に貢献する人を育てる。B.国に押しつけられた枠の中でしか発想できず、視野が狭く、自らの価値観を確立できず、個性や独創的に乏しく、ひとつの方向に猪突猛進する、洗脳された戦士を育てる。」
P50「『与える』教育に代わりルソーは『引き出す』教育を提唱した。
P54「元来は、『国家主義教育学』と『人間性教育学』の論争のはずだったのが、いつの間にか本質をはずれ、不毛なイデオロギー論争に墜ちてしまったことだ。」
P57「不毛な上層部とは別に、草の根的にはすばらしい動きがたくさん観察される.日本にもフレーベルやデューイなどの信仰者はかなり折り、熱心に研究会などを開いている。シュタイナースクールも何校か開校した.フリースクールとしてやっているところもあれば、教育特区を利用して公教育の一部に組み込まれているところもある。ニイルの
教育学を、公教育の中に取り入れている学校は、私がしるだけで10校はある。日本のフリースクールは、不登校を救うために数多く設立されたが、大多数は『人間性教育学』を実践している.」
P62「子供たちに、早くから文字や計算を教えることは、百害あって一理無しだ。」
P65「いま日本では、母親たちは必死になって就学前から文字を教え、知識をおしえようとしている。それは、まったく無駄なだけでなく、文字を強制的に覚えさせられたがために、子どもが失ったものの大きさを思うべきなのだ。」
P71「毎日毎日長時間勉強している子より、徹底的に遊んで『フロー』を身につけた子の方が、たとえ勉強時間は短くても、長い目で見たら学力も高くなってしまうのだ。いまの日本でそれに気づいている人が少ないのは、教育行政を担当している大人たちが、例外なく拷問のような非効率な教育を受けて育ってきており、『フロー』を体験していないからだ。」
P77「いまの日本では、子どもを早くから受験地獄に巻き込んだり、お稽古事を強制して、自由に遊ぶ時間を奪っている親が多い.本人たちは『子どもため』と、熱くなっているのだが、実際には逆効果だ。それによって、子どもの『生きる力』は破壊されていく。」
P79「今の学校教育は、命令に従うこと以外、何も教えていないに等しい。言われたとおりに動き、言われたとおりに覚え、正しいとされる結果を出すことに汲々として、肝心の好奇心、創造力、批判力を自ら封殺してしまう受け身の生徒を大量生産している.(グリーンバーグ)」
P82「人から褒めて欲しい、という欲求(外発的動機)が強くなると、子どもたちの心は外に向いてしまい、内側からこみ上げてくる声(内発的動機)が聞こえなくなってしまうのだ。内発的動機に接地できないと、人は『フロー』には入れない。」
P83「『褒める』という行為は、『自己否定』の泥海の中から子どもたちを救い出す、サルベージの役割を担っている。」
P85「アメリカには、三千以上のモンテッソリー校が有り、(略)卒業生は概して知的独立心が強く、権威が嫌いで、人からの指示・命令されることを好まず、パラダイムを叩き壊してブレークスルーする傾向が指摘されている。つまり、ルソーが望んだように、社会を改革する力を持った人が育っていくのだ。」
P197「どうやら豊かさや優しさが増したのと引き換えに、人々は『生きる力』を失ってしまったようなのだ。」
P198「豊かさとともに、誰しもがどんどん高学歴を目指すようになり、さらに悪くなった。子どもたちが、毎日ワクワクする事なく、ペーパーテストの結果に一喜一憂する学校生活を送るようになると、ますます『生きる力』を失っていく。
国の教育行政担当も、そのことは気づいていたようであり、大失敗に終わった『ゆとり教育』のベースになった、1996年の中教審の答申は『生きる力』が主題だった。」
P200「『無条件の受容』というのは、卓越した教育者たちの奇跡のような教育実践を、深層心理学的に私が分析した結果だ。もし、これが実践できれば、どんな問題児、つまり破壊癖、盗癖、すぐキレる子なども、六ヶ月後には、幸福で健全な天使のような子に変身する。ただし、問題行動や困った性格に接したとき、それに嫌悪感を抱かずに、怒りも感じずに子どもを包容することが、ごく自然に(努力してではなく)出来ていないと『無条件の受容』にはならない。」
P93-94「斉藤公子(一九二〇-二〇〇九)は、幼児期の古い脳の発展がとても大切なことに気づいた卓越した保育者の一人であり、脳科学者などの協力を得て、それを体系化した。とくに『両生類のハイハイ』など、古い脳を活性化するためのさまざまな運動を編み出し、障害を持った子どもたちも、熱心に古い脳を鍛えることにより健常化することを示した功績は大きい。
P95「まず『生きる力』の重要性をすべての人が理解し、それを強化する方法論のトレーニングを受けた人が増える必要がある。何よりもまず、優秀な保育者を大量に育成することが急務だ。」
P98「旧約聖書に出てくる『エデンの園』という楽園は子宮を象徴しており、アダムとイブがそこから追放されたというエピソードは出産を意味している、と心理学は説いている。
P101-102「バーストラウマを癒やすには、共感的な受容、それも『無条件の受容』が必要だ。つまり、悪い言動、嘘、困った性格なども含めて、ありのままのその子の存在を受容すると言うことだ。」「子どもの性格の歪みや、問題行動のほとんどは、バーストラウマが膨張してモンスター化してしまった結果だ。なぜそうなるかというと、親や教師の愛情不足、無視、激しい叱責やしつけ、体罰、あるいは嘘や矛盾した言動などで、子どもが混乱し、自己否定感や恐怖感が大きく育ってしまうからだ。」
P105「子どもに関する心理はひとつしかない。それは、愛され、自由で有り、自分自身であることが許されるなら、誰しもが攻撃性が少なく、表裏のない、誠実さと思いやりの心にあふれた、善良で、平和で社交的な人間になることだ(ニイル)」
P110「もし、世界中の母親が、医療の介入を受けることなく自然に分娩し、すぐに赤ちゃんを抱いて初乳を与え、母親と愛情をたっぷり与えて育てることができたとしたら・・・おそらく・・・この地球の上から戦争はなくなるでしょう(オダン)」
P117-118ミルクをこぼしてピチャピチャ遊び始めたとしよう。その子が夢中になっていたら、それは『フロー』であり、教育上とても大切なプロセスになる。『フロー』を十分堪能しきるまで遊んだ子どもは、内的に充足し『正常化』(モンテッソリー)に向かう。それは内側からこみ上げてくる社会性を次第に身につけることに相当する。(略)一方、ピチャピチャ遊んでいる子に対して、『そんなことをしていないで、早く雑巾を持ってきて拭きなさい』としつけたら、どうなるだろう。(略)『しつけがよく行き届いた子』に映る。親も鼻高々だろう。(略)モンテッソリーがいうように、たびたび『フロー』を妨げられた子どもは、気まぐれで、不注意で、不機嫌になり、それに処罰で対応すると不良少年、負傷少女を生む。」
P119「道徳というのは、かなりの部分が社会的なルールなので、教えないと身につくはずがない、と彼らはいう。いまの道徳教育は、その声を反映して、ほぼ上から強制的に枠をはめる『与える』教育が多くなっている。おそらく、これらの教育学者は、自らが『フロー』を経験していない。また、こどもが『フロー』に浸って『正常化』すると、とくに教えなくても、その社会の暗黙のルールまでも鋭敏に嗅ぎ取って身につけてしまうことを知らない。」
P121「アメリカのある保守的な田舎町で、ユダヤ人がお店を出した.ところが子どもたちが大勢押しかけてきて、“ユダヤ人!ユダヤ人”とはやし立てるものだから、うるさくてかなわない。(略)子どもたちはいぶかしがったが、“ユダヤ人”と叫ぶだけでおこずかいが貰えるので悪い気がしなかった。彼は毎日少しずつ賞金を減らしていったが、一〇セントになったところで誰も来なくなった。 これの例では、最初は一銭も貰わなくても来ていた子どもたちが、やがてお金をもらうという外発的動機にシフトしていき、それが一〇セントまで減ると『そんな少額でいくのはバカらしい』となった。」
P125-129「仏教では、人間の基本的な苦しみを四つ(生・老・病・死)、さらに付帯的な苦しみを四つ(愛別離・怨憎会・求不得・五おん盛)挙げ、合わせて四苦八苦と呼んでいる。
(略)フロイトの性欲と、ランクのバーストラウマと、二つのモンスターについて述べたが、人間の無意識に巣くうモンスターはあと3つ挙げられる。ひとつは『死の恐怖』だ。(略)全員がそうなので、誰もそれが病的な状態と思っていないが、死と直面して生きている伝統的な先住民と接すると自分たちの異常さに気づく。(略)『トラウマ(精神的外傷)』(略)『シャドー(影)』と呼ばれるモンスターもいる。私たちは、成長するにしたがって『こうあるべきだ』と、自らを規定して『ペルソナ(仮面)』と呼ばれる表看板の自分を作り上げていく。その過程で『あってはならない』と自動的に抑圧されたさまざまな衝動波、無意識レベルでどんどん蓄積されていき、次第にモンスターに育っていく。それがシャドーだ。(略)シャドーは、フツフツと衝動がこみ上げてくるが、それは元々『あってはならない』と抑圧されたものなので、必ず嫌悪感や不快感を伴っている。(略)その嫌悪感や不快感がシャドーから出ていることは本人は認識できないため、その原因を自分の外側に求めて、つじつまを合わせようとする。これを『シャドーのプロジェクション(投影)』という。(略)シャドーの闇が深い人が、生徒の問題行動に接すると、どうしてもプロダクションを起こして嫌悪感がわく。それを押し殺して、無理やり笑顔を作って猫なで声を出しても、子どもにはバレバレだ。それは『無条件の受容』とはいえない。」
P131「こみ上がってくる衝動も、あるいはそれをコントロールしようとしている超自我やペルソナの働きも本人はまったく気づくことは出来ない。したがって、問題行動の要因は本人には分からない.それを理詰めで問いただそうとする親や教師が多いが、まったくナンセンスで、逆効果だ。」
P132「一般に私たちが『自分』と見なしている存在は、ペルソナと自我と超自我のコンビネーションだ。それは、長い年月をかけて自らコントロールし、苦労を重ねて強固に彫り上げてきた自己イメージともいえる。それに対して『もうひとりの自分』は、人間は誰でも元々持っている根源的な存在(あるいは特質)で有り、表面的な意識レベルでは、関知することもコントロールすることも出来ない.」
P137「近代に入ってからは、ルソー著『エミール』(1762)が『性善説』の代表格、J・ズルツァー著『子どもの教育と指導の試み』(1748)が『性悪説』の代表格だ。」
P139「人間集団が農耕を中心に、定住した社会を形成するようになると、人々は次第に野生を失っていった。そして、社会生活を円滑にするため、さあまざまなタブーや掟が生まれた。それに適応しようとして葛藤するようになると、抑圧が生じ、少しずつモンスターがはぐくまれていく。」
P140「一般に、善悪の区別は、その社会の枠組みで決まる。従って、その境界は極めて流動的だ。しかしながら、人間の本質が善か悪か、つまり『性善説』を信じるか『性悪説』を信じるかによって、教育の戦略は大きく違ってくる。」
P141「シャドーが深い、戦いの人生になる。それは、人生を切り拓く力にもなるが、戦争を始める要因にもなる。表面的には、立派な社会人を装っていても、裏ではこそこそと悪いことをしかねない。」
P142「心ある教育者のほとんどは、それぞれに表現は違うものの、子どもたちの中に『神』を見出し、『性善説』にもとづく『引き出す』教育を提唱してきている。」
P144「今日、認知科学の研究者の間では、知能の発達には身体性が重要な役割を担っていることは常識になっている。」
P152「人間が経験した記憶は、すべて情動と質感(クオリア)で色づけられている。どうもそれが、知能の源泉となっているようなのだ。」
P153「親のしつけなどで超自我が発達してくると、子どもは親の顔色をうかがって自らの情動を抑圧するようになる。それが慣習化すると、本人が意識する以前に抑圧が起きる。つまり、辺縁系が興奮しにくくなるとともに、たとえ興奮しても、その情報は右脳に上がってこなくなる。」
P154「従来の情操教育は、どちらかというと芸術的なスキルを高めることばかりに焦点を当ててきた。いくらスキルを高めても、情動に接地できなければ、動的な能力は伸びず、『生きる力』は強化されない。」
P174「昔から、『リーダーは声の大きいやつから選べ!』という、格言がある。」
P179「思考系と身体系を切り離すブロックは首の後ろ側につくられる。そうすると、いろいろ考えて、理屈はこねるのだが、いっこうに行動に移らぬ人になってしまう。」
(注ブロック:思考系(脳・神経系)、身体系(筋肉・骨格)、情動系(内情・内臓系))
P182「ローエンの知見を参考にして、私は人間が生きていく上でどうしても必要な要素を『歌と踊りと祈り』の三つに集約した。」
P184「人間は精神的葛藤により身体にブロックと呼ばれるこわばりを形成する(ライヒ)。ブロックが解消すると、思考系、身体系、情動系などのエネルギー・センターがそれぞれ活性化し、バランスが取れ、『もうひとりの自分』が目覚めてくる(ローエン)。
注釈
*1 1998年中教審の答申により、子供たちが身につけるべき「生きる力」の核となる豊かな人間性の感性や心の答申を受け、2002年より実施された「ゆとり教育」は日本中が批判一色に染まり、2007年の中教審の答申は、反省一色になった。
~本著書は、人間性教育学を支持し、ゆとり教育を推奨して書かれていました~
P18
「ゆとり教育は、教師の力量がもろに問われる。創意工夫が必要であり、また事前のしっかりした準備なしでは、酷いことになる。学習指導要領に沿って知識の伝達しかしてこなかった大多数の教師には、荷が重かったと推定される。しかしながら、一部の優秀な教師たちは、すばらしい授業を展開したのも事実だ。それらの優秀な教師には、あまりスポットライトが当たらず、ダメ教師のお粗末授業ばかりがクローズアップされた。」
P21「ゆとり教育を評して、半完成品のハンバーグをフライパンで単に焼くことしかトレーニングされていないファーストフード店のコックに、いきなり高級フランス料理を要求するようなものだ、といった教育学者がいたが、いい得て妙だ。
最大の問題点は、ファーストフード店のコックのレベルの教師が大多数という、いまの日本の教育界の現状だ。いまのように、上から管理や枠組みが強く、やたら忙しいだけで単純作業ばかりをきょうせいされていれば、教師がまともに育つことはとても難しい。」
P25「ここまで反省*1するなら、「生きる力」という看板をひっこめてもよさそうなものだが、面子を重んじたのか、看板を塗り替えて存続をはかっている。
新しい「生きる力」は、「確かな学力」「豊かな人間性」「健康・体力」のみ三つが支えていると定義し直し、再び「学力偏重教育」へ舵を切ったのだ。つまり、もともとは行きすぎた学力偏重教育の弊害を是正するために出した「生きる力」という概念を、それとは正反対の意味で使い始めた感がある。
P33-34「日本中一色に見えたゆとり教育反対論も、たまたま波がそちらに振れただけで有り、決して根が深いものではない。第二次世界大戦後の教育行政史と世論の動向を振り返ってみると、波はあっちに振れ、こっちに振れしており、葛藤の歴史が読み取れる。」
P36「『教育の本流は知識の伝達だ』という主張は、日本の教育界の底に脈々と流れている。そして、『行き過ぎた戦後の民主主義教育』という呪文とともに、何度も保守的な知識偏重教育へのゆり戻しを仕掛けてきた。」
P39「教育を自由化してしまえばいいと思う。ゆとり教育を信じる人はそれを実行すれば良いし、学力が大切だと思う人はそういう教育をすれば言い。教師のレベルが高ければ高度な教育を、低ければ『読み・書き・そろばん』を教えれば良い。本人と相談して、最も適すると信じる学校に通えばいいし、合わなければどんどんかわればいい。」
P46「帝国主義が先鋭化し、ヒトラーのドイツとともに世界中を悲惨な戦争に巻き込んでしまった。このことは、両国の教育のベースが、ともにフィヒテであったことと無関係ではない。また、第二次世界大戦後のわずかな年数で、敗戦国の日本とドイツのGDPが戦勝国のイギリスやフランスを抜いたが、これもフィヒテの教育学が功を奏したといえる。」
「『国家主義教育学』というのは、次のような両面性を持っている。A.国家や支配者に忠実で、隣人に親切で、社会のルールやマナーをよく守り、勤勉で国の発展に献身的に貢献する人を育てる。B.国に押しつけられた枠の中でしか発想できず、視野が狭く、自らの価値観を確立できず、個性や独創的に乏しく、ひとつの方向に猪突猛進する、洗脳された戦士を育てる。」
P50「『与える』教育に代わりルソーは『引き出す』教育を提唱した。
P54「元来は、『国家主義教育学』と『人間性教育学』の論争のはずだったのが、いつの間にか本質をはずれ、不毛なイデオロギー論争に墜ちてしまったことだ。」
P57「不毛な上層部とは別に、草の根的にはすばらしい動きがたくさん観察される.日本にもフレーベルやデューイなどの信仰者はかなり折り、熱心に研究会などを開いている。シュタイナースクールも何校か開校した.フリースクールとしてやっているところもあれば、教育特区を利用して公教育の一部に組み込まれているところもある。ニイルの
教育学を、公教育の中に取り入れている学校は、私がしるだけで10校はある。日本のフリースクールは、不登校を救うために数多く設立されたが、大多数は『人間性教育学』を実践している.」
P62「子供たちに、早くから文字や計算を教えることは、百害あって一理無しだ。」
P65「いま日本では、母親たちは必死になって就学前から文字を教え、知識をおしえようとしている。それは、まったく無駄なだけでなく、文字を強制的に覚えさせられたがために、子どもが失ったものの大きさを思うべきなのだ。」
P71「毎日毎日長時間勉強している子より、徹底的に遊んで『フロー』を身につけた子の方が、たとえ勉強時間は短くても、長い目で見たら学力も高くなってしまうのだ。いまの日本でそれに気づいている人が少ないのは、教育行政を担当している大人たちが、例外なく拷問のような非効率な教育を受けて育ってきており、『フロー』を体験していないからだ。」
P77「いまの日本では、子どもを早くから受験地獄に巻き込んだり、お稽古事を強制して、自由に遊ぶ時間を奪っている親が多い.本人たちは『子どもため』と、熱くなっているのだが、実際には逆効果だ。それによって、子どもの『生きる力』は破壊されていく。」
P79「今の学校教育は、命令に従うこと以外、何も教えていないに等しい。言われたとおりに動き、言われたとおりに覚え、正しいとされる結果を出すことに汲々として、肝心の好奇心、創造力、批判力を自ら封殺してしまう受け身の生徒を大量生産している.(グリーンバーグ)」
P82「人から褒めて欲しい、という欲求(外発的動機)が強くなると、子どもたちの心は外に向いてしまい、内側からこみ上げてくる声(内発的動機)が聞こえなくなってしまうのだ。内発的動機に接地できないと、人は『フロー』には入れない。」
P83「『褒める』という行為は、『自己否定』の泥海の中から子どもたちを救い出す、サルベージの役割を担っている。」
P85「アメリカには、三千以上のモンテッソリー校が有り、(略)卒業生は概して知的独立心が強く、権威が嫌いで、人からの指示・命令されることを好まず、パラダイムを叩き壊してブレークスルーする傾向が指摘されている。つまり、ルソーが望んだように、社会を改革する力を持った人が育っていくのだ。」
P197「どうやら豊かさや優しさが増したのと引き換えに、人々は『生きる力』を失ってしまったようなのだ。」
P198「豊かさとともに、誰しもがどんどん高学歴を目指すようになり、さらに悪くなった。子どもたちが、毎日ワクワクする事なく、ペーパーテストの結果に一喜一憂する学校生活を送るようになると、ますます『生きる力』を失っていく。
国の教育行政担当も、そのことは気づいていたようであり、大失敗に終わった『ゆとり教育』のベースになった、1996年の中教審の答申は『生きる力』が主題だった。」
P200「『無条件の受容』というのは、卓越した教育者たちの奇跡のような教育実践を、深層心理学的に私が分析した結果だ。もし、これが実践できれば、どんな問題児、つまり破壊癖、盗癖、すぐキレる子なども、六ヶ月後には、幸福で健全な天使のような子に変身する。ただし、問題行動や困った性格に接したとき、それに嫌悪感を抱かずに、怒りも感じずに子どもを包容することが、ごく自然に(努力してではなく)出来ていないと『無条件の受容』にはならない。」
P93-94「斉藤公子(一九二〇-二〇〇九)は、幼児期の古い脳の発展がとても大切なことに気づいた卓越した保育者の一人であり、脳科学者などの協力を得て、それを体系化した。とくに『両生類のハイハイ』など、古い脳を活性化するためのさまざまな運動を編み出し、障害を持った子どもたちも、熱心に古い脳を鍛えることにより健常化することを示した功績は大きい。
P95「まず『生きる力』の重要性をすべての人が理解し、それを強化する方法論のトレーニングを受けた人が増える必要がある。何よりもまず、優秀な保育者を大量に育成することが急務だ。」
P98「旧約聖書に出てくる『エデンの園』という楽園は子宮を象徴しており、アダムとイブがそこから追放されたというエピソードは出産を意味している、と心理学は説いている。
P101-102「バーストラウマを癒やすには、共感的な受容、それも『無条件の受容』が必要だ。つまり、悪い言動、嘘、困った性格なども含めて、ありのままのその子の存在を受容すると言うことだ。」「子どもの性格の歪みや、問題行動のほとんどは、バーストラウマが膨張してモンスター化してしまった結果だ。なぜそうなるかというと、親や教師の愛情不足、無視、激しい叱責やしつけ、体罰、あるいは嘘や矛盾した言動などで、子どもが混乱し、自己否定感や恐怖感が大きく育ってしまうからだ。」
P105「子どもに関する心理はひとつしかない。それは、愛され、自由で有り、自分自身であることが許されるなら、誰しもが攻撃性が少なく、表裏のない、誠実さと思いやりの心にあふれた、善良で、平和で社交的な人間になることだ(ニイル)」
P110「もし、世界中の母親が、医療の介入を受けることなく自然に分娩し、すぐに赤ちゃんを抱いて初乳を与え、母親と愛情をたっぷり与えて育てることができたとしたら・・・おそらく・・・この地球の上から戦争はなくなるでしょう(オダン)」
P117-118ミルクをこぼしてピチャピチャ遊び始めたとしよう。その子が夢中になっていたら、それは『フロー』であり、教育上とても大切なプロセスになる。『フロー』を十分堪能しきるまで遊んだ子どもは、内的に充足し『正常化』(モンテッソリー)に向かう。それは内側からこみ上げてくる社会性を次第に身につけることに相当する。(略)一方、ピチャピチャ遊んでいる子に対して、『そんなことをしていないで、早く雑巾を持ってきて拭きなさい』としつけたら、どうなるだろう。(略)『しつけがよく行き届いた子』に映る。親も鼻高々だろう。(略)モンテッソリーがいうように、たびたび『フロー』を妨げられた子どもは、気まぐれで、不注意で、不機嫌になり、それに処罰で対応すると不良少年、負傷少女を生む。」
P119「道徳というのは、かなりの部分が社会的なルールなので、教えないと身につくはずがない、と彼らはいう。いまの道徳教育は、その声を反映して、ほぼ上から強制的に枠をはめる『与える』教育が多くなっている。おそらく、これらの教育学者は、自らが『フロー』を経験していない。また、こどもが『フロー』に浸って『正常化』すると、とくに教えなくても、その社会の暗黙のルールまでも鋭敏に嗅ぎ取って身につけてしまうことを知らない。」
P121「アメリカのある保守的な田舎町で、ユダヤ人がお店を出した.ところが子どもたちが大勢押しかけてきて、“ユダヤ人!ユダヤ人”とはやし立てるものだから、うるさくてかなわない。(略)子どもたちはいぶかしがったが、“ユダヤ人”と叫ぶだけでおこずかいが貰えるので悪い気がしなかった。彼は毎日少しずつ賞金を減らしていったが、一〇セントになったところで誰も来なくなった。 これの例では、最初は一銭も貰わなくても来ていた子どもたちが、やがてお金をもらうという外発的動機にシフトしていき、それが一〇セントまで減ると『そんな少額でいくのはバカらしい』となった。」
P125-129「仏教では、人間の基本的な苦しみを四つ(生・老・病・死)、さらに付帯的な苦しみを四つ(愛別離・怨憎会・求不得・五おん盛)挙げ、合わせて四苦八苦と呼んでいる。
(略)フロイトの性欲と、ランクのバーストラウマと、二つのモンスターについて述べたが、人間の無意識に巣くうモンスターはあと3つ挙げられる。ひとつは『死の恐怖』だ。(略)全員がそうなので、誰もそれが病的な状態と思っていないが、死と直面して生きている伝統的な先住民と接すると自分たちの異常さに気づく。(略)『トラウマ(精神的外傷)』(略)『シャドー(影)』と呼ばれるモンスターもいる。私たちは、成長するにしたがって『こうあるべきだ』と、自らを規定して『ペルソナ(仮面)』と呼ばれる表看板の自分を作り上げていく。その過程で『あってはならない』と自動的に抑圧されたさまざまな衝動波、無意識レベルでどんどん蓄積されていき、次第にモンスターに育っていく。それがシャドーだ。(略)シャドーは、フツフツと衝動がこみ上げてくるが、それは元々『あってはならない』と抑圧されたものなので、必ず嫌悪感や不快感を伴っている。(略)その嫌悪感や不快感がシャドーから出ていることは本人は認識できないため、その原因を自分の外側に求めて、つじつまを合わせようとする。これを『シャドーのプロジェクション(投影)』という。(略)シャドーの闇が深い人が、生徒の問題行動に接すると、どうしてもプロダクションを起こして嫌悪感がわく。それを押し殺して、無理やり笑顔を作って猫なで声を出しても、子どもにはバレバレだ。それは『無条件の受容』とはいえない。」
P131「こみ上がってくる衝動も、あるいはそれをコントロールしようとしている超自我やペルソナの働きも本人はまったく気づくことは出来ない。したがって、問題行動の要因は本人には分からない.それを理詰めで問いただそうとする親や教師が多いが、まったくナンセンスで、逆効果だ。」
P132「一般に私たちが『自分』と見なしている存在は、ペルソナと自我と超自我のコンビネーションだ。それは、長い年月をかけて自らコントロールし、苦労を重ねて強固に彫り上げてきた自己イメージともいえる。それに対して『もうひとりの自分』は、人間は誰でも元々持っている根源的な存在(あるいは特質)で有り、表面的な意識レベルでは、関知することもコントロールすることも出来ない.」
P137「近代に入ってからは、ルソー著『エミール』(1762)が『性善説』の代表格、J・ズルツァー著『子どもの教育と指導の試み』(1748)が『性悪説』の代表格だ。」
P139「人間集団が農耕を中心に、定住した社会を形成するようになると、人々は次第に野生を失っていった。そして、社会生活を円滑にするため、さあまざまなタブーや掟が生まれた。それに適応しようとして葛藤するようになると、抑圧が生じ、少しずつモンスターがはぐくまれていく。」
P140「一般に、善悪の区別は、その社会の枠組みで決まる。従って、その境界は極めて流動的だ。しかしながら、人間の本質が善か悪か、つまり『性善説』を信じるか『性悪説』を信じるかによって、教育の戦略は大きく違ってくる。」
P141「シャドーが深い、戦いの人生になる。それは、人生を切り拓く力にもなるが、戦争を始める要因にもなる。表面的には、立派な社会人を装っていても、裏ではこそこそと悪いことをしかねない。」
P142「心ある教育者のほとんどは、それぞれに表現は違うものの、子どもたちの中に『神』を見出し、『性善説』にもとづく『引き出す』教育を提唱してきている。」
P144「今日、認知科学の研究者の間では、知能の発達には身体性が重要な役割を担っていることは常識になっている。」
P152「人間が経験した記憶は、すべて情動と質感(クオリア)で色づけられている。どうもそれが、知能の源泉となっているようなのだ。」
P153「親のしつけなどで超自我が発達してくると、子どもは親の顔色をうかがって自らの情動を抑圧するようになる。それが慣習化すると、本人が意識する以前に抑圧が起きる。つまり、辺縁系が興奮しにくくなるとともに、たとえ興奮しても、その情報は右脳に上がってこなくなる。」
P154「従来の情操教育は、どちらかというと芸術的なスキルを高めることばかりに焦点を当ててきた。いくらスキルを高めても、情動に接地できなければ、動的な能力は伸びず、『生きる力』は強化されない。」
P174「昔から、『リーダーは声の大きいやつから選べ!』という、格言がある。」
P179「思考系と身体系を切り離すブロックは首の後ろ側につくられる。そうすると、いろいろ考えて、理屈はこねるのだが、いっこうに行動に移らぬ人になってしまう。」
(注ブロック:思考系(脳・神経系)、身体系(筋肉・骨格)、情動系(内情・内臓系))
P182「ローエンの知見を参考にして、私は人間が生きていく上でどうしても必要な要素を『歌と踊りと祈り』の三つに集約した。」
P184「人間は精神的葛藤により身体にブロックと呼ばれるこわばりを形成する(ライヒ)。ブロックが解消すると、思考系、身体系、情動系などのエネルギー・センターがそれぞれ活性化し、バランスが取れ、『もうひとりの自分』が目覚めてくる(ローエン)。
注釈
*1 1998年中教審の答申により、子供たちが身につけるべき「生きる力」の核となる豊かな人間性の感性や心の答申を受け、2002年より実施された「ゆとり教育」は日本中が批判一色に染まり、2007年の中教審の答申は、反省一色になった。