読書メモ 『教師になること、教師であり続けること~困難の中の希望』

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◆グループ・ディダクティカ編、『教師になること、教師であり続けること~困難の中の希望』、剄草書房、2012年 についての雑記

1.はじめに
何故、学校に言葉に出来ない不信感、疲労感を時に感じるのか。何故、元気をもらい幸せを感じる先生もいるのか。教師はどのようにつくられ、何をしないといけないと思っているのか。これらの疑問から、閉ざされた職員室について書かれたこの本を選択。

2.文献要約
教師として感じる閉塞感、飛躍への契機について世代ごと、テーマごとに章(全12章)立てで、記された本である。

(第1章 山崎雄介)新人教員に完成品*1を求めている。

(第2章 松下佳代)GERM(Global Educational Reform Movement)的な教育改革は大いに疑問があり、その正統性は揺らいでいる。評価教育への問題提起。

(第3章 松下良平)まじめな教師は単に教える人である。誠実な教師はむしろ学ぶ人*2である。まじめな先生では社会に必要な力を生徒に伝えることはできない。教育の成功が「だれにでも理解可能・判定可能な評価基準」により判断されるとき、まじめな先生では社会に必要な力を生徒に伝えることはできない。

(第4章 杉原真晃)学校は、新人を支える組織として機能していない。

(第6章 松崎正治)モデルとなる先輩教師を模倣する為、児童とともに授業を受けた。子どもたちが私の発言を引き出してくれた。

(第7章 森脇建夫)「指導力不足教員」と認定された教師は約8割が四十、五十代(文部科学省二〇〇八)。詰め込み教育から、考えさせる教育への変化に対応できないベテラン教員に、この傾向がある。

(第八章 藤原顕・萩原伸)教師は、「制度的な要求をなかば拒絶しつつ、なかば受容しながら、意味ある実践を自身が置かれた状況の中で何とか創りあげようと自己の教育観の実現を追求するジレンマをやりくりする存在だ」。

(第十章 吉永紀子)「教えなければ」「伝えなければ」という思いが先にあった。生徒の意識とは関係なく、教師の進めたい方向へ引っ張っていく言葉を発するほど、教室の雰囲気は重たくなっていった。教材のもつ力を知るほどに「教えなければ」という焦りを加速させる契機になった。

(第十二章 石垣雅也)教師も学校の「しんどさ」の中で苦しんでいた。高速道路を時速100kmで走行中に、その50cm後ろを同じ速度でピタッとついてこられるしんどさで、毎日「こんな仕事はもう続けられない」と思っていた。問題が起こるたびに、放課後校長室に呼ばれ、管理職から人間性を否定され、必要のない存在だと感じ苦しめられた。教師間の「つながり」をつくりだすという発想がなかった。


3.本書籍について、私の雑記
学校とは、「教育目標」*3に従い、その達成を目指すために設立されている。その目標(目的)と達成手段において、日本の教育方針はゆりかごのように揺れ続き*4、教師・生徒の心が増幅して揺れ続いているようだ。“普通の親”は、我が子の自己利益(学歴や社会規範の獲得など)を追求する。この関係が冒頭の不信感につながっていると思った。

順に解してみる。天外伺朗(2011年)は、日本の教育界について「『教育の本流は知識の伝達』従って、教員は学習指導要綱に沿って伝えるだけの存在で有り『国家主義教育学』*5の教育により、日本社会が豊かさや優しさが増したことの引き換えに、好奇心、創造力、批判力のない生徒を大量生産し、『生きる力』を失った。国もそのことに気づいており『ゆとり教育』を行うことになったが、創意工夫が必要で教師の力量の問われる『ゆとり教育』を行う力をもっていなかった」と記している。その通りであれば、教師は教育そのものに、もはや参加することのできないタダの人という危険な指摘でもある。

第1章の山崎が記したように、社会は新人でも教員に完成品を求めている。これまでの国家主義的教育学*5から、人間性の成長を重視する教育へ揺れ動いている中で、過去の流れを断ち切り、第4章の杉原他が指摘している組織を整備しない以上、現状では、難易度の高い教育を求められても出来なかったのは道理かもしれない。

しかしながら、第6・10章の松崎・吉永が記しているように、教育者として自立できた教師もいた。契機の1つの要素は、天外伺朗(2011年)の指摘と同様に「子どもたちの中に『神』を見出し、『性善説』にもとづく『引き出す』教育を提唱できた」人であった。教員ができることは「『生徒の背中をおしてやるぐらい』であり、おせば作用反作用のように『その反動を受け、教員自身も背を押されるように感じる』。生徒が先生の支え」になり、心を通わすことで互いに成長をすることが“教育”と気づいた点である。この姿勢がある意味において、完成された教師かもしれない。

また別の視点として、それを支える同僚や組織の存在が不十分な現状を知った。組織として、「教育とは何か」について、共通の認識を持つ姿勢が必要であり、議論をする自由が要る。旧来の枠組みだけではない、新たな取り組み*6を組入れる検討もあるはずだ。

これら、明確な答えが出来ない課題*7である以上、議論を尽くす場と時間が、職員室に必要と思った。しかしながら、第十二章で石垣が指摘したように、現実の職員室は、安心治(2012)が記した次の考えに近いのではないだろうか。

「この地は我欲と我欲がつばぜり合いをしている世界なのだ。結局我欲の強い者が支配し、弱い者は保身のために強い者に服従する。」

「人々は自分から対立を生まず、敵をつくらないことに細心の注意を払うのである。また逆に相手側からそうされないように細心の注意を払うのである。」

「劣化していく人間たち。その人間たちが教育を担い、次の世代の人間たちを社会に出していく。」

「お互いに信頼し合うということは、思っている以上に簡単なことではない。今の人々は人間関係で、できる限り傷がつかないように振る舞う。それは自然と深い関係を結ぶことができず、お互いに疑心暗鬼の眼で視ている。相手を信用できず、何をしてくるか予測がつかないので絶えず防御の姿勢を取らざるを得ない。こういう関係では互いに信頼関係を結ぶことは困難であろう。傷つくのを避けることは信頼関係を放棄することではないだろうか。」

「次世代にかける信頼もなく、ただ己の権勢慾で働いている教育行政者たち、己の地位保全のために盲目的に追従している現場の人間たち。」


4.まとめ
教育とは、教師とは何かについての本であった。私は、教師力とは、個々の生徒と対話し、その生徒を介して教室全体を見られる力。教師間・親とも生徒を介して教育について職員室に一石を投じることが出来る力ではないかと思った。

今、子どもたちに対して、教育者や親はもっと自然権を認めるべきであろう。その上で、社会契約を彼らに迫るプロセスを負わせるのが、教育の基本ではないのかとも思った。そのため、明確な解のない教育方法について、教育者間で、もっとオープンで十分な議論を尽くす場が必要になると思う。問題の解決には、社会と結ぶ契約内容に集中し、各個人への攻撃や自分自身に目を向け循環論に陥るのではなく、問題となる行動点に集中する姿勢が、親、子ども、教師には必要なのではないであろうか。


注釈
*1 中央教育審議会(答申)H24.8.28(参考文献)でも認識されたうえで、国も制度をつくろうとしている。しかし、教育指導の暗黙知を得ることも必要と考える。
*2 同上(答申)では、今後の課題として「学び続ける教員像」の確立が必要と指摘。
*3  教育基本法の第1条には「人格の完成を目指し、(略)社会の形成者として必要な資質を備えた心身共に健康な育成(略)」とある。学校の「教育目的」の1つであろう。
*4 「国家主義教育学」と「人間性教育学」の論争だったはずが、本質を外れ、不毛なイデオロギー論争に墜ちてしまったと天外伺朗(P54)は記している。
*5 フィルテの教育は「国家や支配者に忠実で、隣人に親切、規範意識もある反面、枠の中でしか発想できず、自分の価値観を確立できず、洗脳された戦士を育てる」と指摘されている。
*6 奥田健次(2012年)は不登校で多くの実績がある。「心の中身や本質論などを取り上げ、何も進まない循環論」で硬直するより、「条件だけ明確に定め、本人の自由な意思によって“動く”」取り組みである行動分析学など、多様な教育のつながりで打開できる場面もあると思われる。
*7 「生きる力」は功利主義ではない。SAPIO編集部編(2011年)でマイケル・サンデルが「意見が違ってもお互いが耳を傾けて学びあうことが大切だ」と言ったように、ソクラテスの時代から哲学では対話が重要視されている。自然権と実社会との間に、関わる教育論には、職員室に対話の空気を持ち込むことが必要と思える。

参考文献
・天外伺朗、『「生きる力」の強い子を育てる』、株式会社飛鳥新社、2011年 P18-36,54,142

  ・文部科学省、『教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について(平成24年8月28日 中央教育審議会答申)』、
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2012/08/30/1325094_1.pdf、(アクセス日2013年7月9日)

・奥田健治、『メリットの法則 行動分析学・実践編』、集英社新書、2012年

・安心治、『壁の向こうの学校』、文藝書房、2012年 P238,244,247

   ・SAPIO編集部編、『マイケル・サンデルが誘う「日本の白熱教室」へようこそ』、株式会社小学館、2011年


雑記の引用頁
・グループ・ディダクティカ編、『教師になること、教師であり続けること~困難の中の希望』、剄草書房、2012年

親の多くは、将来の自己利益(職種・収入・地位・結婚・名誉など)を期待して子どもを学校に通わせる。よって、教育を受ける者の自己利益に貢献する側面からのみ学校をみた場合、学校と塾のあいだに本質的な違いはない。

国家の側からみると教育基本法(第1条「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身共に健康な育成(略))にあるように「教育目的」に学校教育は従い達成を目指さなければならない。学校は子どもたちの為に何が出来るか、自分はどうすれば良いか、思い悩む。単に出世したり、いい学校や会社に入ったり、高い収入を得たりすること以上のものである。子どものためを考えても、国家や社会の観点から考えても、それよりはるかに多様で複雑な価値を含んでいる.そのような問題について考えていくのが学校の教師とすれば、教師はもはや成績アップを目指すだけの塾の講師とは全く異なる存在だといわなければならない。(P57)

しかしながら、一定の学力や就業能力、「生きる力」がつくよう、学校・教師はなんとか力を尽くしてほしい。子を持つ親から国家の行く末を案じるものまで、こう考えるひとは少なくなかった.しかもこの考えは、学校教育は子どもや親のニーズを満たし自己利益に貢献すべきであるとする、高度成長期以降に大きく広がった考えとも接合した。(P59)

教師をパッシングする多様な声に包囲され四面楚歌状態になった教師たちは、こうして異議を申し立てるだけでなく、苦しみの声をあげることさえ困難になっていった。(P60)

教育がもっている多様な可能性や豊かさを切り捨ててしまうこと(P63)短期間に目でみえる成果を要求する。「求められた教育成果を一定期間内に出せ」という要求(P64)評価者によって求められているものを、テンプレートなどに従いつつそれらしく仕立て上げ、表現することに意を注ぐようになる。成果の偽装にばかりエネルギーを費やして、教師が教育をおろそかにし、子どもたちが学びから遠ざかるとき、これまは「生きる力」がつくはずがない。(P64)

(第6章より)
子どもたち自身が授業を展開できるように入念に授業計画を組んだ先輩教師の授業方法を実践するために、自分が生徒となり授業を受けた。熟練先生の授業は言語的に明示できない暗黙知の要素(自転車の乗り方など)がある。授業を受けることで話し合う児童の様子を彼らの表情や仕草、何気ないつぶやきから読み取り、授業の進行や課題について考えられた。

楽しいかどうかを基準に授業を組み立てる。こどもがおもしろいというようになった。「全然自分とは違う視点」が他者から与えられることによって、アナロジーによる思考が活性化していくのである。学習指導要領だけ教えるのではなく・・・

(第9章)
どんな権力者たちも、昔は無力な子ども(生徒)だったから、記憶の中の被害者意識で、教師にバッシングを加える。

「子どもの主体的な学習」がよい、という。それで学力向上などはかれるはずがない。授業に先立って指導計画や評価基準を作成しておく事など、何の意味もない。